見沼田圃は、さいたま市、川口の2市(平成13年5月1日浦和、大宮、与野の3市は合併し、「さいたま市」となった。)にまたがり、東京から20~30km圏に位置しています。南北は約14km、外周は約44km、面積は約1,257.5haとなっています。各市ごとの面積は、さいたま市1,199.4ha( 旧浦和市656.1ha、旧大宮市543.3ha) 川口市58.1haとなっています。
現在は、見沼田圃は畑が最も多く、主に花木や野菜等の生産が行なわれています。その他としては、公園、グラウンド等として利用されています。
見沼田圃の歴史
海の入江の時代 (縄文時代) |
見沼田圃は、古くは東京湾の海水が入り込む入江でした。 見沼田圃周辺は、そのころ形成された縄文時代前期の貝塚などの遺跡が数多く見られます。 |
沼・湿地の時代 (弥生時代から1628年) |
約6,000年前を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂で次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地となりました。 見沼は三沼、箕沼、御沼などとも表記されてきましたが、これは当時沼であった名残りと考えられます。 |
農業用溜池の時代 (1629年から1727年) |
徳川家康は、財政的基盤としての水田確保のため、伊奈半十郎忠治に見沼田圃を灌漑用水池とするように命じました。 1629年(寛永6年)、忠治は見沼の両岸の最も狭くなっているさいたま市(旧浦和市)大間木の附島と川口市の木曽呂との間に堤を築きました。 この堤は、長さが8町(約870m)あったことから八丁提と呼ばれています。 これにより、見沼中央を流れていた芝川がせき止められ、平均水深約1mの溜池(溜井)が完成しました。 |
田圃の時代 (1728年から現在) |
8代将軍吉宗は、幕府の財政改革(享保の改革)のため、井沢弥惣兵衛為永に見沼溜池の新田開発を命じました。 1728年(享保13年)、見沼溜池を干拓し、代わりに利根川から見沼代水西縁・東縁を掘って水を引くことにより、見沼は田圃として生まれ変わりました。 |